リーチのあれこれ

好きなこと、思ったことを気ままに綴る備忘録。

平成から令和へ、航空業界にみる平成での変化

お久しぶりです。一年ぶりの更新になるでしょうか。


さて、いよいよあと少しで平成から令和へと時代が変わります。令和を築いていく世代の自分としても、この社会の変化はかなり大きなものであると感じています。


平成では、様々な社会の変化がありましたが、そんな平成を、最後に自分の専門分野である航空業界に焦点を当てて語りたいと思います。


自分が持つ知識で語るので、間違いがあるかと思いますが、ご容赦ください。



まず、航空業界は、世界情勢との関わりがとても深いです。そういった意味で、平成と始まりとともに崩壊したソ連の存在は大きいでしょう。


ソ連崩壊により、日本や韓国といった極東の西側諸国からの欧州直行便が大きく変わりました。

それまでのアラスカ経由や南回りでの欧州便が、シベリア上空の通過が許可されたことにより、ノンストップで運行されるようになりました。ソ連崩壊以前から、フィンエアーなどのいくつかの航空会社では運行されていたと記憶していますが、それが本格化したのはソ連崩壊後ではないでしょうか。

日本と欧州の心理的距離がグッと近くなり、人の往来や経済の結びつきが強くなったのではないかと思います。


また、平成初期は2マンクルーのハイテク航空機が多くデビューし、B747クラシックやDC-10などの、航空機関士を必要とする航空機に変わり航空業界の主役を担うようになりました。その技術進歩により、長距離便に於ても経済性で有利な双発機が主役に躍り出るようになり、A330B777などが花形の長距離路線で運用されるようになりました。

個人的には大型で2階席のあるB747や、私がよく利用していた日本国内ローカル線ではなかなか運用がなかったDC-10やトライスターなどの3発機を羽田や伊丹で見るたびに、いつか乗りたいと思っていたものですが、自分が経済的に自由になる前に日本の空から消えていったのはとても残念に思います。


また、平成の日本の航空業界を語る上で欠かせないのが、JASJALの合併です。私と同世代の友人でも、JASを覚えている人は少なく、時代の流れを感じます。この合併で、憧れのJALに気軽に乗れるようになったと喜んだ一方、これがJAL倒産の引き金のひとつでもあったのだなとしみじみと思います。


その間にも、世界的な航空自由化が進み、国内でもスカイマークをはじめとした第三極と呼ばれる航空会社が運行を始め、また2010年代には、LCCがいよいよ国内でも運行を開始しました。LCCの登場により、飛行機が多くの人にとって更に身近になったと言えるのではないでしょうか。


国産初のLCCであるピーチが運行する前、既に航空業界に興味を抱いていた私は、各関連メディアで目にしていた、大手航空会社(レガシーキャリア,FSC)が立ち上げたLCCの失敗記事を目にし、当時国際的競争力を失い始めていた家電製造各社のように、国外で失敗しているようなことを日本の企業が成功出来るのか、不安でした。

しかしそのような不安は杞憂に終わり、紆余曲折はあったものの、日本のカスタマーに合ったLCCとして成長し、見事に市民権を得ている現状には、大げさかもしれないですがこの国への希望と、航空業界への明るい展望を見たように自分は感じます。


また、平成初期に登場したハイテク航空機の次世代機として、ここ10年で、B787A350などの新世代の航空機が多数登場し、新たな需要創出や今までの航空機ではキャパオーバーだった路線の開設など、目まぐるしい変化が起こりました。


そして、私が航空業界の激しい変化をひしひしと感じる最大の要因として、「ハブアンドスポーク」から「ポイントトゥポイント」への航空各社の戦略変化というものがあります。

私が「ハブアンドスポーク」を教わったのは10年前、受験生時代でした。世界各国を代表する巨大な国際空港に、国内だけでなく近隣国の地方から自社便で旅客を集め、そこから世界各国への長距離便の利用客を乗せる「ハブアンドスポーク」戦略により、日本は国際的な交通結節点としての地位を、近隣の韓国仁川空港だけでなく、シンガポールチャンギ空港、タイのスワンナプーム空港に脅かされていました。そういった要因から、羽田のD滑走路建設と再国際化が進み、日本の空は大きく変わりました。

それが今では、世界的な空港の整備と、前述した新世代機により、ポイントトゥポイントにより、日本からも世界の様々な都市への直行便が運行されるようになりました。自分としては、オーストラリアのパースや米国のボストン、インドのムンバイやメキシコに日系航空会社が直行便を飛ばすようになるなんて、受験生時代には考えられませんでした。


国内線に目を向けると、国内の空港でも滑走路延長や移転、新空港開港が平成には相次ぎ、羽田や成田が大きく拡張されました。国内線でも限られた発着枠の中で沢山の利用客を運ぼうと、地方路線でも大型機が使われていた平成初期から、多頻度運行による利便性向上と引き換えに、小型機によるダウンサイジングが進み、B747の脇をMD-81がタキシングする伊丹の風景が懐かしく感じるようになりました。そのため、地方空港を発着するB747B777の姿にノスタルジーを感じます(繁忙期には、今でもB777が地方でも運行されることがありますが)。


長々と語りましたが、自分が持つ乏しい知識だけでも、平成の航空業界の変化をここまで語れるのかと驚いています。また、日系航空会社での事故による死亡事故は自分の記憶する限り起きておらず(ハイジャックや胴体着陸などはありましたが)、とても安心して利用できる交通機関であると自分は考えています。これは、空の安全を第一に、顧客に快適な旅を提供する為に一生懸命働いていらっしゃる非常に多くの方々の頑張りがあってこそではないでしょうか。


自分は父と母の故郷が遠く、幼い頃から飛行機に乗る機会が比較的多かったように思います。数年に一度乗る飛行機がとても好きで、いつも楽しかった思い出があります。それは今でも変わらず、飛行機に乗る度、ワクワクでいっぱいです。

そんな素敵な乗り物である飛行機が、令和の時代にも同じように、いや、それ以上に素敵なものになっていければと思います。